2009年8月9日、兵庫県佐用町は1時間に87mm、24時間で327mmという記録的豪雨に見舞われ、町内各地で河川が氾濫。国から激甚災害と閣議決定されるほどの甚大な被害を受けました。
今年2024年は、豪雨水害からちょうど15年の節目の年。普段は観光・グルメ情報等をメインに発信する当メディアですが、今回は「佐用町豪雨水害」被災者・重田の体験をブログ形式で記録します。
平成21年台風第9号による佐用町豪雨水害の概要
2009年8月8日 9時に太平洋沖で発生した熱帯低気圧は、紀伊半島へ北上しながら9日 15時に台風第9号に。この熱帯低気圧と台風周辺の湿った空気の影響で中四国、一部近畿地方に大雨が降り、中でも佐用町は、過去観測史上1位の降雨量を1.5倍以上も上回る豪雨に見舞われました。
その結果、9日 20:00ごろより佐用町内各地で河川が氾濫し、1,787棟が最大2.2mの床上浸水、96億円にも及ぶ被害総額、死者18名・行方不明者2名の人的被害という甚大な被害を受けました。
当時の様子については、防災システム研究所さんのリポートを見ていただければと思います。
・平成21年台風第9号への対応 | 内閣府防災
・平成21年8月9日の豪雨と災害に強いまちづくりの推進 | 全国治水砂防協会
被災当日に関しての記憶
実は私重田は、1998年8月9日生まれで水害当日に11歳の誕生日を迎えました。
当時の私は、休日は地元のソフトボールチームの活動、平日は野球やサッカーをするなど、とにかく毎日のように体を動かす少年だったのですが、被災当日も「遊びたい」という思いしかありませんでした。
あの日の朝に母親からやりたいことを問われた私は「卓球」と答え、「けんこうの里三日月(閉館)」に足を運び卓球をして遊びました。家を出たのが13:00前後、その時はまだ「雨強いなぁ」くらいにしか思っていませんでした。
運動ができる母親との卓球だったので、真剣に、白熱した打ち合いをしていたのですが、15:00ごろに「川が増水して危ないから帰ったほうが良い」と、施設長・広岡武治さんが忠告しに来られました。
私はもっと遊びたかったので「もうちょっと、もうちょっと」と言っていましたが、母親の判断で帰宅。母親によると、帰りの道中も氾濫していないものの危ない箇所はあったとのこと。
結果的にそれから約5時間後に佐用川は氾濫しました。後日、広岡さんが命を落とされたと知ったのですが、今でも思う部分はいろいろとあります。ただ早いタイミングでの帰宅を忠告いただいたことに感謝しかありません。
被災翌日から
もちろん私の実家「贈り物の重田」も浸水(床上1.4mくらい)していましたので、翌日からはひたすら復興作業に取り組みました。(ボランティアの皆さま、ありがとうございました。)
ただ当時は、まだ防塵マスクの着用などが徹底されていなかった(この手の災害が少なかったので)こともあり、私は被災から5日ほどで「レジオネラ肺炎」を患い10日程度?入院、救急車で津山中央病院に搬送されたのですが、病院で腕に針を刺されて以降の記憶はなく、気づいたら5日ほど経っていました。退院してからの記憶もないので、ひたすら療養していたのかなと。
水害による直接的な人的被害者は20名と公表されていますが、間接的な被害者(災害関連死)を含めると、おそらく相当な数になるのではないかなと、今は思います。
終わりに
その後徐々に町も復興してきましたが、正直、この水害をきっかけに多くの商工業者が倒れ、町としては一気に衰弱しました。中小企業や長寿企業を研究していた身としては、100年以上続く老舗企業などを町として失った点は非常に残念でなりません。
ただ、地球温暖化が進めば全国で水関連の災害は増えます。佐用町は、豪雨水害により町としての機能が著しく損なわれましたが、今後も同様のケースが各地で起こるはずです。
被災していない新しい佐用町民の方に「平成21年台風9号による豪雨水害」を知ってもらいたいことはもちろん、佐用町民以外の方にも、この水害を教訓にしていただき、今後の万が一に備えていただければな と思います。
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